2012年2月 8日

松華堂カステラ

松島の名勝地五大堂のそばに「松華堂菓子店」という洋菓子店が一昨年オープンしました。モダンでおしゃれな和風の建物で松島の人気のスポットとなりそうな雰囲気がただよっています。8テーブルある喫茶室からは、大きな窓越しに五大堂が見え、ここでゆったりと人気の看板商品であるカステラをいただきながらお茶を飲むという贅沢が味わえます。

こだわりのアカシア蜂蜜(盛岡市藤原養蜂場産)と、松島町蜂谷養鶏場の新鮮な卵を使って、丁寧に焼きあげられた生地は、きめ細かく、しっとりとして弾力があります。はちみつは20種類からカステラに合うものを厳選しているということです。そのためなのでしょうか、口当たりは、しっとりとしているのにふんわりしていて、上品な甘さです。

「明治に創業をした当時の屋号を復活させ、新旧のよいところを取り入れ、"温故知新"をテーマに、よりよい店づくりを目指しています」と代表の千葉真一さんは話しています。併設の喫茶室では、ほうじ茶やコーヒーなどから選べる飲み物つきの「カステラセット」がお勧めだそうです。その他に自家製の餡を巻いた「あんこロール」などもあります。

2012年2月 6日

9ヵ月ぶり再開(その2)

ジャキ君を保護してくれたのは、近くに住む菅野長徳さんという人で、自宅近くで泥だらけの犬を連れた青年に、「犬が離れないので困っている」と相談され、その場で引き取ったそうです。菅野さんは、それまで犬を飼っていましたが2ヵ月前になくなってしまったので、犬小屋や餌が残っていた。海の方から来たため、飼い主は津波でなくなったと思った。

そこで菅野さんはジャキ君を飼うことにし、名前も仁(じん)と名づけましたが、この名前は工藤さんの焼き鳥店の名前だったというのも何かの因縁でしょうか。菅野さんは、工藤さんとジャキ君が再会した時、これまで聞いたことのないような甘えた声を聞き、「工藤さんが本当の飼い主に間違いないと確信しました」と話しています。

工藤さんは、ジャキは死んだとばかり思っていた。いい人に巡り会えて幸運だった感謝している。元気に散歩しているジャキ君の姿を見つけた時、工藤さんはどんな思いだったのでしょうか。わが家では早速ムサシにこの話をしたところ、深く感銘を受けたようでしたが、無言のままただ頷いているだけでした。この奇跡がにわかには信じられなかったのかもしれません。

2012年2月 3日

あざら

大根の茎漬けや菜っ葉漬けの古漬けを魚のだしで粕汁にしたものが気仙沼地方では好んで食べられています。「あざら」はその代表格でしょう。昔この地方に「あざら」という名の法師が住んでいましたが、その法師、石灯篭を一人で担ぐほどの力持ちでした。法師とは徳の高い僧を意味する阿闍梨(あじゃり)と呼ばれたが、それが訛ってあざらとなった。

そして、手荒なこと、豪快なことを意味するように変化したといわれていますが、「あざら」はこの阿闍梨法師によって伝えられた料理とされています。それだけに調理方法は豪快そのもので、冬から春にかけて、酸味が出てきた古漬けと脂ののったメヌケを大きい鉄鍋どっさりといれて炊き、みんなで集まって丼で何杯も食べました。

隣近所にも振舞い、お互いにわが家の味が一番だと自慢し合ったといいます。あざらはさめてもおいしく、翌日になって煮返すと更においしくなり、一度炊くと二、三日食べていた。酒粕が入っているため体がよく温まるので、冬の食べ物として好まれるが解かるような気がしますが、高級なメヌケが入っているのも食欲をそそるのでしょうね。

2012年2月 1日

遠流志別石神社(おるしべついしじんじゃ)

登米市石越町の遠流志別石神社は、延喜式内社栗原7座のひとつと言われ、古くから石神様と呼ばれ、広範囲にわたって篤く崇拝されてきた神社です。古書によると日本武尊が天照大神から伝わる霊石を祀ったところ、この石が小石を生んで別れたことから「石子石の里」と呼ばれるようになり、石神社の起こりとされ現在の石越の由来となっているという。

これには別の説もあります。神社当方の丘から産出する礫岩が風雨に晒されることで、小石の塊を周囲に散らし、あたかも石が子を産んだように見えるので、自然崇拝であった当時の住民はこれを神として祀ったものと推察されるというものである。遠流志別(おるしべつ)とはアイヌ語で「大きな川の流れの側」という意味だそうです。

江戸時代には荒廃し、記憶も失われていたものを、仙台藩の儒学者が調査した結果、当時の石神明神が延喜式内社の遠流志別石神社と判明しました。本殿の後ろには石に囲われた一画があり、そこに遠流志別石神社の謎を解くヒントがあったということようです。何しろ、遠流志別石神社は古代ロマンにあふれた神社であることは間違いありません。

2012年1月30日

9ヵ月ぶり再開(その1)

東日本大震災の津波に襲われ、行方不明になっていたワンちゃんが昨年12月下旬に9ヵ月ぶりに飼い主の元に戻ったということです。ワンちゃんは9歳のオスで名前は「ジャキ」君といい、飼い主は山元町で焼き鳥店を経営している工藤さんという方です。大震災当日、工藤さんは仕入先の亘理町で地震に遭い、急いで山元町の自宅に戻りました。

もちろん、ジャキ君のことは心配でしたが、長女が見当たらないので、まず娘を捜そうと店に向かいました。途中で娘さんと出会ったのでジャキ君を助けようと急いで家に戻りましたが、その時は既に津波が押し寄せていたのであきらめざるを得なかった。2階建ての自宅は1階部分が浸水し、犬小屋は跡形もなく流されてしまいました。

工藤さんは「あのとき、ジャキを連れていけばよかった」と何度も自分を責めたということです。ところが、店を再開しようと戻ろうとした時、見知らぬ男性と散歩している白い犬に出合ました。歩き方がジャキにそっくりだったので、車を降りて近づくと、犬が駆けだし抱きついてきた。「よく生きていたね」。工藤さんはしばらく涙が止まらなかった。

2012年1月27日

松島復興かきまつり

全国的に有名な「松島のカキまつり」が今年も2月4日(土)と5日(日)の二日間にわたって開催さることになりました。昨年は、3月11日の東日本大震災で、宮城県内の漁業が壊滅的な被害を受け、恒例の「松島のカキまつり」も開催が危ぶまれていましたが、1日も早い復興を願って精力的に取り組んだ結果、何とか開催に漕ぎつけたようです。

松島町では、昨年の12月に松島町震災復興計画を策定し、「復興」「創造」「貢献」そして、「東北・松島の美しさと安全を継承し発信するまちづくり」を基本コンセプトとし、復興だけではなく、10年、20年先を見据え、松島固有の自然、歴史、文化などの多様な資源を最大限に活用した、新しい松島を目指して計画の推進に取り組むこととしています。

こうした復興計画の一環として開催される「松島のカキまつり」は、熱々のカキ鍋や炭火で焼いた殻付きカキの試食、そして定番となった各種ステージイベントなど盛りだくさんのメニューで開催されます。特に今年は、同じ日本三景の宮島(広島県)と天橋立(京都府)のある両県から提供された、カキの食べ比べが楽しめるということです。

2012年1月25日

小野小町の墓

平安時代の女流歌人で日本的美人として有名な小野小町は、都で華やかに暮らしていましたが、寄る年波には勝てず、晩年郷里の秋田に帰る途中、ここ新田夜鳥の里に差しかかったところ、にわかに病に倒れてしまいました。草庵を結んで氷室薬師に100日参りして病気平癒の願をかけましたが、大願成就を前にして精魂つき路傍に倒れ没してしまいました。

それを見た村人たちは、寂しい最期を遂げた小町をあわれんで手厚く葬り、墓碑を建立して菩提を弔ったという。また、後に都を追われた在原の業平によって、遺骨が見つけられたという説もあるなどもあり、小野小町の生涯については謎が多く、出生の地や死亡した場所などについては正確に把握されていないということです。

大崎市古川新田地内にあるこの墓も、今のところ真偽のほどは定かではありませんが、往時の風流人が小町の墓を立て、多くの人が墓参して歌を詠む習慣が近年まであったと伝えられています。「当時の古川地方の文芸的側面を物語る遺産とも考えられ、文化史的にも大変貴重なものである」というのが古川市教育委員会の見解です。

2012年1月23日

無事だった友達

若い時のムサシは、市内全域をくまなく探索するマメなワンちゃんでした。お陰で出不精な私も、市内の地図が頭にはいり今では百年もここに住んでいるような気がしています。そんなムサシも晩年は足腰が弱まったためか、行動範囲がめっきり狭まったため、遠くに住む友達とは少しずつ疎遠になってきて寂しく感じていました。

特にあの大震災では多くの友達が不幸にあったという噂を耳にし、心を痛めていましたが、先日、偶然にも街で大の仲良しだったきらら君にあいました。ちょうど赤信号で停車中だったので、"きらら"と声をかけると、彼女も覚えていてくれたようで、懐かしそうに笑顔で応えてくれました。そういえば、旧友の中ではきらら君が一番若かったはずです。

あれからかなりの年月がたっているのに、私たちを覚えていてくれたことには感激しましたが、きらら君も私たちに声をかけられたことを喜んでいるようでした。なにしろ、散歩の途中で必ず立ち寄るという仲だったので、お互いにその後の消息を案じていたに違いありません。大震災で犠牲になった仲間の分も長生きしてほしいと願うばかりです。

2012年1月20日

大崎八幡宮

伊達政宗の仙台入府とともに現在地に造営された大崎八幡宮は、元々は平安時代に坂上田村麻呂が旧水沢市に宇佐八幡宮を勧請したのが始まりとされています。その後の室町時代には、大崎地方を支配した大崎氏が田尻に遷宮して大崎八幡としましたが、大崎氏が滅亡した後に伊達政宗が岩出山城内に遷して祀ったとされています。

政宗は仙台城築城に当たり、乾(いぬい・北西)の護りとして大崎八幡宮を置き、合わせて伊達家が古くから信仰してきた米沢の成島八幡宮を合祀しました。社殿は、拝殿と本堂そしてそれらを繋ぐ石の間がひとつになっています。日光の東照宮の様式であることから権現づくりと言われますが、それよりも以前に造られた日本最古の権現造りの遺構です。

社殿は杮葺(こけらふき)の屋根で、正面の千鳥破風と軒唐破風を付けています。黒の漆を基調としていますが、長押の上は徹底的に鮮やかな極彩色の組物と彫刻、朱や金の垂木で飾られた桃山時代の特色が見られます。なかでも、左甚五郎のモデルとされる刑部左衛門国次の手による「にらみ猫」は、日光東照宮の「眠り猫」と同じ作風の名作です。

2012年1月18日

大獄山権現堂(興福寺)

登米市南方の大獄山にある興福寺は、平安初期、坂上田村麻呂によって建造されたとされている古寺である。征夷大将軍坂上田村麻呂は蝦夷を平定する任にあたり、この地方の長である大武丸を大獄山で殺害し、遺骨を7ケ所に分葬してそれぞれ観音堂を立てました。興福寺の観音堂はその一つで、当時は興福寺、天王寺の2寺と48坊があった。

仏教を通じて蝦夷の教化に当たっていましたが、鎌倉以降この地方は葛西氏が治めることになりました。ところが、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったことにより、所領を取り上げられ没落してしまいました。その後に木村吉清が入部しますが、葛西大崎の一揆が起き、一揆を平定した伊達政宗が代わって領主となりました。

興福寺は、一揆に加担したため領地を没収されたものの、佐沼の領主津田氏の崇敬を受け、後に伊達家の祈祷所ともなっています。参道より仁王門をくぐり、石段を登ると5間四方の観音堂があります。明治21年の宝形造りで、向拝に施された彫刻が素晴らしい。本尊の十一面観音は秘仏です。観音堂の外壁には中国の二十四孝の物語が色彩鮮やかに彫られています。