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大震災 の記事

2011年3月23日

未曾有の大震災

3月11日午後2時46分に発生した東北地区太平洋沖地震は、思い出すのも恐ろしいほどのひどい揺れでしたが、それにもまして驚いたのが、これに伴い押し寄せてきた大津波です。ある人の証言によれば、牡鹿半島の先にあるあの金華山が水没したかのように錯覚したほど、分厚い水の壁が押し寄せてきたということでした。

私どもが住んでいる塩釜市は、南三陸町や気仙沼市、石巻市などより被害の程度は多少軽かったのかもしれませんが、甚大な被害を被ったことには変わりありません。特に自宅のあるこの地区は、2つの貞山運河に挟まれた形になっているため、アクセス道路が水没してしまうと、たちまち陸の孤島と化してしまい身動きできない状態になってしまいます。

しかし、近くに第二管区海上保安部があり、その庁舎が第一次避難書に指定されているため、近隣の方々は素早く非難することができみな無事でした。避難場所である庁舎の4階から貞山運河方向を眺めると、車が船と一緒に流されているのが見えました。それだけでも大変な光景なのに、他の地区ではまさに地獄絵図を見るようだったに違いありません。

2011年3月25日

お見舞と救援に対する御礼

今回の東北地区太平洋沖地震および津波による災害に際して、皆様から温かい励ましのお言葉や救援の物資を頂戴し、誠にありがとうございました。衷心より御礼申し上げます。
当店の被害は比較的軽微であったとはいうものの、市街地はことごとく破壊されてしまいましたので、電気や水道、ガスなどのライフラインが分断されてしまったため、浸水した水が引いた現在も、まだ後片付けすら手つかずの状態です。

それでも、被災後10日が過ぎたころから電気が使えるようになりはじめ、間もなく水道も復旧する見込みと聞いています。行政機関までもマヒ状態に陥った被災直後と比べると、電話回線も次々回復してきていますし、ようやく明るさが見え始めてきていますので、本格的に復興の準備に取りかかれる見通しであることをご報告させていただきます。

取引先も当店同様に、復興に向けて鋭意努めておりますので、そう遠くない時期に商品の流通が再開できるものと思われます。今世紀最大の大震災に見舞われながらも、関係各位やお客様のご激励により、是が非でも復興させなければと志を新たにしているところでございます。最後になりましたが、被災された皆様のご健勝を心よりお祈り申し上げます。

2011年3月30日

不幸の真っただ中で見つけた小さな幸せ

高さ7mの津波が来るので避難するようにという掛け声で始まった耐乏生活は、当然のことながら快適なものではありませんでした。しかし、思わぬ収穫もありました。というのは、こうした状況下では被害者であるという意識一色で、他から施しを受けるのが当たり前という意識が強くなり、あまり積極的に動こうとはしないもののようです。

私自身もご多分にもれず、与えられるのをひたすら待ち続けるだけで、面倒を見てくれる人を思いやる余裕など全くなかったような気がします。そんな修羅場の中で献身的に活躍する一人の女性が目につきました。後になって知ったのですが、その女性は平塚さんという方で、聞けば彼女自身も被災者で、しかも被害はかなり重いということでした。

その人のフットワークは軽やかで、てっきりプロの看護師さんだとばかり思っていました。それというのも、服装からして緊急時に相応しいスマートな身支度で、避難者に的確なアドバスをする傍ら、こちらの要望を慮り次々に的確な行動をとるので、公的機関から派遣された人だと思い込んでいましたが、実は全くのボランティアだということでした。

2011年4月 1日

あっという間に出来上がったネッワーク

一人の女性の献身的な行動が次々に女性たちの心を動かし、「公助」「共助」「自助」のネットワークがあっという間に出来上がってしまいました。避難所に指定されている第二管区海上保安部は、建物も頑丈であるため大きな安心を提供してくれましたが、避難所の運営はお互い無案内であるためか情報が錯綜してもどかしい限りでした。

一旦避難民となってしまうと、「自助」の精神を置き去りにしたまま、不満だけが募るのが常だと思うのですが、そうした身勝手な心に強烈な反省を促したのが彼女たちの行動でした。始めは「自助」の域を出なかった行動が、近隣の人との「共助」に繋がり、やがて「公助」とも融合し見事な連携プレー体制が出来上がっていったのでした。

一旦自分が担える役割を認識すると、次々に周りの状況が見え始め、新しい発想が生まれるのか、災害対策本部への要望もリアルタイムで的確に伝えられるようになり、全く予期せざる出来事であるにも関わらず、モラルを踏み外す人は現れませんでした。これらの女性たちの活動は物質的なものにとどまらず、すさんだ心に希望の灯をともしたようです。

2011年4月 6日

復興に向けての第一歩

店はお客様のためにあるものですから、いつまでも嘆いているだけでは何の解決にもなりません。重い心と体に鞭打ち、浸水した店の片づけ方を始めました。覚悟していたこととはいえ、惨憺たる現状に改めてため息が出ましたが、お客様の笑顔を思い浮かべながら気を取り直し、泥まみれになって山のような残骸と格闘しています。

それにしても、招かれざる突然の訪問者の傍若無人ぶりには恐れ入ります。何しろ、一瞬にして平穏な雰囲気が一変してしまったからです。如何に大自然といえども、少しは人の都合を考慮してくれてもよさそうなものを!いとも簡単に土足で他人の家に入り込み、全てを破壊してしまったばかりか、長く居座るというのは明らかにルール違反です。

これは、長年自然を破壊し続けてきた人間への報復なのかもしれませんが、自然を大切にし、親しんできた面も多少は評価して欲しかったというのが本音です。ともあれ、目の前の悲しみを乗り越えなければ、未来がないという現実も受け入れなければなりません。重い課題ではありますが、とにかく第一歩を踏み出すことにしました。

2011年4月 8日

復興には知恵と行動力が不可欠

親の教育方針には大きく分けて二つ方向があるような気がします。一つは清く正しい生き方を教えるという方針と、もう一つは強く逞しい人間に育てるという方針です。わが家にはそうした明確な哲学などありませんでしたが、どちらかというと後者の方に近かったと思います。しかし、今回の大震災で少し胸を張れそうです。

結果オーライだと冷やかされるかもしれませんが、わが家の息子達は、死の恐怖にさらされながらも、とっさの判断と積極的な行動力で家族を救ってくれました。未曾有の光景に困惑しきっている警察官を一喝するなど小気味よい行動は、被災した多くの人々に勇気と希望を与えたとすれば、親としてとても正直誇らしく思います。

二男などは、津波警報がとけてまもない時期に、どこをどうやって通り抜けてきたのか、石巻から塩釜の実家に表れ食べ物などを届けてくれました。普段はさながら粗大ゴミと同格のような存在と思われている彼が、今回はがぜん本領を発揮し、次々と的確にものごとを決めて実行しています。それがまた、一々理にかなっているからおかしいのです。

2011年4月13日

仮埋葬に心が痛みます

早いものであの大震災から1ケ月が過ぎました。月日の経つのはどこも同じのはずなのですが、被災者にとっては殆ど時計は進んでいないような気がします。それでも世の中の風景を見ると確実に時間が経過していることを実感させられます。先日も何気なく車窓から眺めたある光景に時の流れを思い知らされ、ショックを受けました。

それは、荒涼たる被災地の風景には不似合いな整地された土地でした。ところがこの景色最近テレビの画面で見かけた記憶があることに気づきました。それもそのはず、そこは、震災で犠牲になった人達の仮埋葬所だったのです。本来ならば火葬にすべきところですが、あまりにも数が多いため間に合わず、やむを得ず土葬にしました。

テレビを見るだけでも胸が痛むのに、現場を目の当たりにすると、あらためて災禍の恐ろしさが甦ってきます。こうした光景を見ると、ご本人の無念さはもちろんのこと、遺族の方々にとっては生涯癒えることのない悲しみが痛いほど伝わってきます。自然の猛威の前には無力な私たちですが、せめて復興の志だけでも伝えたいと思いました。

2011年5月11日

心に響かない復興の足音

震災で失った家や工場を復興させようとしてみんな一生懸命努めています。目の前に立ちはだかる瓦礫の山との格闘は予想をはるかに超え、被災した人たちの疲労はとっくにピークに達しているはずなのですが、それでも決してめげることなく日夜奮闘した結果、少しずつですが生活の基盤を取り戻しつつあるように感じられ、とても心強い限りです。

しかし、その一方で、一向に見えない国の長期ビジョンが復興の足かせになっているような気がします。危険地域に指定されているので、原則として住居を構えるのは禁止するという規制などは、一体どのように受け止めればよいのでしょうか?その代替案である仮設住宅の建設は遅々として進まない現状を見るにつけ、いらだちは募るばかりです。

第一、危険地域に指定された地域をどのように活用し、最終的にどのような街を作ろうとしているのかを明らかにせず、"危険だから住んではいけない"というのでは、私有財産の処分権をいたずらに制約するばかりで、頼り甲斐のある温かみはみじんも感じられません。国は一刻も早く、被災者が納得できるビジョンを示すべきではないでしょうか。

2011年5月18日

白いSOS

大震災直後の13日、河北新報に「屋上のSOS」という記事が載っていました。記事を読んでみるとその学校は石巻市立大街道小学校でした。この学校は子供たちみんなが卒業したところで、孫たちも現在3人通っています。震災が起きた午後2時46分には学校にいたわけですから、当然ここに取り残された形になったということです。

ところが、その時避難生活についてあまり実感がわきませんでした。たぶん、自分たちの避難生活を基準に考えていたからなのでしょうが、記事を読んでいるうちにその悲惨な状況が実感できるようになりました。石巻工業港から北へ1キロの所に位置する学校の周辺は海水に沈み、3階に避難した住民や先生、児童たち600人が孤立状態に陥ったのです。

先生たちが起点をきかせて、B4判のコピー用紙をもってきて、SOSの文字を屋上に描きました。後で直接きいてみたところ、最初の2日間は殆どのまず食わずで、ようやく配られた1本のバナナを4人で分けあったということでした。19日になってようやく自衛隊員がおにぎりとお湯を運んできた時には、拍手が湧き上がったということです。

2011年5月20日

がれきの中の小さなコンビニ

大震災で殆どの住民が被災した南三陸町に小さなコンビニが開店しました。この場所は「セブン?イレブン志津川天王前店」があった所の駐車場です。移動販売車と小さなテントだけの青空店舗ですが、家族5人が力を合わせて懸命に運営しています。志津川地区の津波浸水地域で商店が開店したのは初めてということもあり、地元の人の来店が多いようです。

店主の渡辺隆さんによると、脱サラして開いた店を自ら20時間も働き軌道にのせたという。被災前は渡辺さん夫妻だけが店頭に立っていましたが、再開後は小学6年生の長女を含め総勢5人が協力し合い、がれきの町に明るい声が響き渡っています。支援物資にはない生菓子や乳製品などが買えるとあり、お客様の評判も上々のようです。

渡辺さんは「今まで店を支えてくれたお客様の少しでも役に立ちたい。家族で協力し合い、いつかまたこの町に店を構えたい」と話している。これほどの被害に遭いながら、地元への愛着をひたすら持ち続ける人々の心は最大限に尊重しなければ真の復興にはなり得ない。店はお客さんのものという商売の原点が脈々と生きているのは何よりも心強い気がします。

2011年5月27日

「てんでんこ」の教訓

岩手県の大槌湾に面した釜石東中と鵜住居(うのまい)小学校の生徒・児童570人は、大震災の当日、襲いくる大津波を見事に振り切り、高台に避難し全員無事だったという。一見当たり前のように見える行動ですが、なかなかの奮闘ぶりだったことが伝わってきます。低学年の児童たちはあの地震でパニックになっていても不思議ではないからです。

事実、泣きじゃくって迅速に行動できない子もなかにはいたようですが、中学生や上級生が小さい子の手を引いて統制のとれた行動をした賜のようです。この地区では日頃から防災訓練を励行していたことが功を奏したのはもちろんですが、「てんでんこ」の教えを守る姿勢が脈々と引き継がれていたことが第一のようです。

「てんでんこ」とは、「てんでんに行動しましょう」という一種の約束事のようなもので、岩手県から宮城県沿岸に伝わる津波に対する教訓です。いうなれば、津波の時は自己責任で行動しましょうというような意味ではないかと思います。引率の先生たちのリーダシップも見事だったのでしょうが、自分が今何をすべきかを子供たちがよく認識していたからこそできた連携プレーだったのではないでしょうか。何時までもグズグズして何も決められないどこかの偉い人とは大違いに思えてなりません。

2011年6月15日

復興への願いを込めたアクセサリー

フカヒレで有名な気仙沼地方では、サメの歯のアクセサリー造りも行われております。東日本大震災で被害を受けた気仙沼市唐桑のアクセサリー作家佐々木久子さんもその一人で、地元産のサメの歯を使ったアクセサリー製作に取り組んでいます。作品には、今回の大震災に因み「復活の牙」と名づけ、一日も早く笑顔を取り戻してほしいと願っています。

このネーミングは、何度でも生え替わるサメの歯に復活のイメージを重ねて、一つひとつの作品に復興の願いを込めて作り続けています。佐々木さんの専門は調金ですが、半年ほど前に地元の漁師たちに分けてもらったサメの歯に、小ぶりの天然石を組み合わせてネックレスやストラップを手掛けるようになったということです。

佐々木さんは、仙台市にあるさくら野百貨店で30日まで開かれている、宮城県内の作家らのチャリティ展示即売会に、調金作品とともに「復活の牙シリーズ」など約1000点を出品し、来店者から気仙沼らしい作品という評価を受けている。震災でサメ漁の再開が未定なため、在庫も乏しくなっていますが、何とか制作を続けていきたいと意気込んでいます。

2011年6月17日

黄金山神社の傷あと

ある人の証言によると、あの大震災の津波で金華山が水没したかのように見えたという。その後どうなったかは知ることができませんでしたが、さすがに被害は大きかったようで、やはり千年に一度という威力には勝てなかったということでしょう。神社のシンボルである鳥居や青銅の常夜灯などが地震により倒壊してしまいました。

年間6万から7万人が訪れるという参拝客を取り戻そうと、関係者は復旧に努めていますが、島へのアクセスの拠点である鮎川、女川両港も津波で壊滅的な被害を受けたため、定期船の運航は再開のめどがたっていないという。3月11日の本震と4月7日の余震で、拝殿前に並ぶ高さ5mもある青銅製の常夜灯2基が破壊されてしまいました。

この常夜灯は、山形市の山寺、香川県琴平宮の灯籠とともに「日本三代灯籠」されているほど、由緒あるものですが、激しい揺れで半分に折れてしまいました。1894年建立の石鳥居も根元から倒壊したほか、石造りの構造物も被害がありました。また、桟橋から神社に続く急な坂道はいたるところで崖崩れが発生し、桟橋も地盤沈下により満潮時には冠水するというありさまです。

2011年7月15日

最近感じた理不尽なこと

世の中には矛盾したことが沢山ありますが、大震災に遭遇したことで露呈した矛盾にはやり場のない憤りを禁じ得ません。例えば、地震と津波で住んでいる家はもちろん、家族や全ての財産を奪われてしまった人が、ようやくアパートを探しあてても保証人がいないので入居することができない。こうした場合に公的機関が手を差し伸べる手段がないという。

また、生活保護もらっている人が、被災して義捐金や補償金をもらうと、一定水準の所得をオーバーしてしまうので生活保護が打ち切られてしまう。最終的には何とか支給されたようですが、こうした発想が法の精神になっていることは許せない気がします。例え一瞬でもそうした判断を下す人たちは、一体どこを向いて、何のために仕事をしているのでしょうか。

市や町の体たらくは他にもあります。被災して事実上孤立状態になっている住民は置き去りにされてしまったという事態が多発しました。未曾有の震災であるため、情報が非対称になっていることは理解できますが、被災した地区にどれほどの世帯があり、どれだけの人が暮らしていたかは、寸時に把握できるはずなのに、全く行動が伴わないのはなぜなのでしょうか?

2011年7月20日

義捐金の行方

あの大震災から早120日以上になろうとしているのに、未だにライフラインも復旧していない地域が沢山あります。瓦礫の撤去などは、それぞれおかれている状況が違うので一概にはいえないでしょうが、集まった義捐金ぐらいはとっくに被災者に届いても不思議はないように思います。いったい何が原因でこんなに停滞しているのでしょうか?

これは単なる私の推測に過ぎないのですが、公的機関は公平を期するための配分方法を決めあぐんでいるためではないかと思うのです。確かに民主主義国家としては、平等・公平は最も大事な基本原則です。しかし、義捐金は文字通り、義によって出捐する緊急支援金です。何時までも公平に拘っていては義捐金の効果が薄れてしまいます。

なかには、手を出すべきではない人もいるかもしれません。しかし、そのことを防ぐ抜本的手段もない以上、多少乱暴なやり方でも、被災した全ての人々を善良な市民とみなして、一刻も早くお金を配ることが、地方冶自体の使命ではないでしょうか。不公平を是正するのはその後でも決して遅くはありません。まずは命をつなぐことです。

2011年7月27日

最近感じた理不尽なこと(その2)

大震災のショックで病院に運ばれ、その後死亡した人の家族は、震災による弔慰金の支給対象にならないという。その理由は、地震や津波と病気との因果関係が乏しいということらしい。なるほど、地震や津波が起きれば、必ず死亡するとは限らないので、死亡との間には相当因果関係が乏しいと判断する考え方には一理ある。

しかし、その一方では、地震や津波によるものは保険金の支払い対象としないという保険契約の説明をする保険会社の対応はどうでしょう。地震や津波により、道路が破壊されたり、原子力発電所が破壊されたために、放射能漏れを起こしたところまでは、地震による被害であることは常識的にも理解できるが、全てを地震や津波のせいにするのは納得がいかない。

1次被害ならともかく、2次被害とも言うべき風評被害までも地震・津波によるものとして保険金の支払いを拒否する姿勢と震災によるショックによると見られる病気は、遺族に対する弔慰金の対象としないというのは、あまりにもご都合主義である。被害者にしてみればどちらも納得できないのは当然で、弱者を救済する姿勢があまりにも欠けている。

2011年10月14日

国破れて山河あり

東日本大震災によって破壊された家屋は数知れないが、解体されて更地になってみると、この場所にはどんな建物があったのだろうかと、ふと立ち止まってしまうことがあります。そういえばあの災禍から早半年以上も経過したのだと、改めて月日の早さを実感しています。瓦礫も目に付く場所からは一応片付けられたようです。

しかし、実際に街を歩いてみると、その傷跡の深さは震災直後よりもむしろ強烈に感じることもあります。例えば、歩道は原野のごとく長い雑草が生え、ところどころからのぞかせるインターロッキングの鮮やかな色、そして、蓋が壊れたままの側溝など、とてもついこの間まで人が歩いた道とは思われません。正に、国破れて山河ありといった光景です。

遠くから聞こえてくる選挙カーの叫び声も、ひとしお空しく響きわたり、まるで別世界から聞こえてくるようにさえ思われます。ただ、震災前と比べると工事現場の警備員さんの表情がにこやかになったような気がします。それは、地獄で仏に会ったような気がするからでしょうか。それとも、復興の槌音が心に響いたからでしょうか。