2010年3月11日

まだまだ修行が足りない私

ムサシからあれほど手ほどきを受け、動物の心を理解していた積りでしたが、今回の津波騒ぎでの自分の対応の悪さを考えると、まだまだ修行が足りないと実感しました。津波の到達時間を知らせる市役所の放送、ひっ切なしに鳴り響くサイレン、巡回する消防車の鐘の音など、レオ君やロン君達にとっても不安がいっぱいだった筈です。

そのことに逸早く気づいてあげられなかっただけでも情けないのに、例え数分といえどもレオ君を一人にしてしまったことは不覚でした。どんなに不安だったのかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。心のどこかで散歩をしてやっているという驕りがあったのかもしれませんが、それだけではなさそうです。

しかし、ご近所の皆さんが避難所に向かっているのを見ても動揺することはありませんでした。レオ君を預かった時から、彼とともに行動しようと思っていたので、レオ君を受け入れてくれるはずがない避難所へは向かわないと心に決めていました。ムサシもこのことに関しては評価してくれたようなので、何とか面目が保てたという次第です。

2010年3月10日

海鮮居酒屋「あっちのばん」

JR仙石線中野栄駅から歩いて1分、国道45号線に面したマンションの1階に懐かしい昭和レトロの店があります。古いオルガンや蓄音機、駄菓子などが出迎えてくれ、奥にはカウンター、小上がり広がっています。3年ほど前にリニューアルして、地域の皆様に親しんでもらえる居酒屋を目指して歩んできました。

「酒好きな自分が、その時一番飲みたい銘柄、食べたい肴を出しています」と店主の齋藤昭宏さんは言います。厨房の冷蔵庫には、選び抜かれた地酒が40本ほど並び、そのうちの何本かは、もっと旨くなるように2ヵ月ほど寝かせてから出すのだそうです。また、和リキュール類が充実しているのも特徴の一つです。

中でも、とろろと濃厚な鳥海山ヨーグルトリキュールは、ヘルシーなイメージあるためか人気が急上昇中とか。マンゴー梅酒なども魅力的です。つまみで一番人気は、豚ホルモンをたっぷりの玉ねぎで4日間煮込んだ手作りのもつ煮。活ツブの刺身、自家製鯨ベーコン、マグロほほ肉焼きなど、左党にはたまらない定番が揃っています。

2010年3月 9日

栗原市花山(その3)

その右手にあるもう一つの店が「花舞の里」です。ここも地場産の粉と天然水で仕込んだ香りのよい「そば」を打っています。店の横には農産品の直売所もあります。いずれも、冬季は閉店され四月になると開店する。そして最後は「温湯山荘」です。やっと11月に再開にこぎつけました。ここは雪景色を眺めながら日帰り入浴ができます。

迫川の清流沿いに佇む山間の出湯として知られている「花山温泉」のルーツは、8世紀も前のことになります。1150年ごろのある日、山が崩れたのがきっかけで温泉が湧き出たと伝えられています。その後、1180年には、奥州藤原氏三大秀衡が湯神社を祭祀しました。江戸時代になると、鎌倉時代から奥州に隠れ住んでいた三浦氏の子孫が関守しとして伊達家に仕えるようになりました。

以来、湯宿として栄えてきたところですが、現在の花山温泉温湯山荘は、市民ばかりではなく、観光やレジャーに幅広く利用されています。近くには、国定史跡・仙台藩花山村寒湯番所跡があり、藩政時代の面影を今に残しています。大災害に見舞われながら、見事に復興を遂げた「温湯山荘」は昔と同じ湯加減でお客様を迎えてくれます。

2010年3月 8日

栗原市花山(その2)

国道に戻ると、すぐ右手にあるのが、道の駅「自然薯の館」です。ここは、「自然薯ざる蕎麦」が人気ですが、特性の「すりおろし生わさび」、黄色い「金美ニンジン」など、こだわり農産品もあって面白い。栗駒山原生林での養蜂が復活すれば、芳醇なトチノキの「ハチミツ」なども品ぞろえに加わることになるでしょう。

ここからもう少し行くと「山内豆腐店」があります。この辺に来ると崖の崩落などが目立ち、揺れが激しかったことが窺われる。店も大打撃を受けたが、修理と後片付けが終わり、秋の道路復旧にあわせて再開しました。湧き水と地元の大豆で作った自慢の「御番所豆腐」、薄手でかおりのよい「油揚げ」も元通りになりました。

しばらく行くと、手討ちそばの店が二軒あります。左手の「ざらぼう」は、花山産のそば粉を使った「ざる」や「そばだんご」、キノコ、山菜、自家栽培野菜のてんぷらなどを出す週末だけ営業するお店です。農家の納屋を移築し、薪ストーブと囲炉裏のある店構えもいい。ご主人は、地震で傾いた床が余震で元に戻ったと苦労を笑いながら話す。

2010年3月 7日

津波騒ぎの後日談

先日の津波騒ぎのさなか、近所に住むレオ君がわが家に緊急避難したことはお話ししましたが、どのようにして自分の家に帰ったのか解りませんでした。最終的にはだれかがチェーンで繋いでくれたわけですが、私が知りたいのは、わが家の拘束をふりほどいたのち、直接自分の家に向かったのか、それとも、彷徨しているところを保護されたのかということです。

その辺の事情がやっと昨晩解りました。やはり、ロン君のお父さんが彷徨しているレオ君を見つけ、ハウスに収めてくれたということでした。昨晩私たちが散歩をしている時、久しぶりでロン君に会いました。ロン君!と遠くから声をかけると、まっしぐらに飛んできてくれました。彼もとっても優しくて可愛いワンちゃんです。

その時、津波の時のレオ君のことを聞いてみて解ったというわけです。人っ子一人いなくなった道路に飛び出したわけですから、とても心配で交通事故にでもあったら大変と慌てふためいて外に飛び出した私ですが、地域の皆さんのセーフティネットに救われた形で、レオ君の無事を確認した時は本当にホットしました。

2010年3月 6日

栗原市花山(その1)

一迫から花山に入ると、すぐに千葉周作ゆかりの孤曇屋敷があります。その近くにあるのが、「千葉酒店」で洋酒ブームのころに仕入れた超高級国産の「オーシャンTAKETSURU」や「ニッカブラック50」などの希少品が貯蔵されている。少し坂を上ると花山湖にでますが、土砂で濁った水もだいぶよくなってきているようです。

湖を望むところに、地場産品の販売所である「旬彩」があり、ここは最近建て替えられてきれいになった。橋の袂にあるのが「はしば」。ここは昔から行楽客にはなじみの食堂兼食料品店です。春には「山菜」、秋には「キノコ」や「自然薯、」「ハチミツ」など、小豆畑地区(耕野地区と同じ戦後の開拓地)から奥山の逸品が並んでいます。

橋を渡って右手すぐに「伊藤酒店」があり、ここにも超レアな「ホワイトニッキー・スピリッツ」や一迫の門傳酒店の「酒粕」などを買い求められます。その先、花山青少年旅行村の近くには陶芸家工藤さんの座主窯があります。平成15年の地震そして今回と二度も窯が壊れましたが、復旧して独特の風合いのある焼き締めた器づくりを再開しました。

2010年3月 5日

熟練の技「仙台箪笥」(その4)

次の時代に残していくために、「行政も巻き込んで仙台箪笥の新たな可能性を探っていきたいと思っています」と話す。「ジャパンブランド育成支援事業」は、地域の歴史や文化の中で育まれてきた素晴らしい素材や技術などの地域資源を、現代生活に適合させたり、海外の市場にも眼を向けたりしながら進化させていくことで、時代や国境を越えた強い共感を呼ぶ新しい商品やサービスを生み出すことを支援する事業のこと。

日本らしさを表現しつつ、世界に共通する「ジャパンブラン」を実現していくことを目指している。支倉常長の時代にはバチカンに塗り箱が贈られた記録が残っていますから、仙台箪笥も世界の市場に通用するものとして伝えていきたいですね。」いよいよ世界へ進出する仙台箪笥。仙台・宮城を代表する伝統工芸品・仙台箪笥の新たな挑戦がスタートしています。

美しい欅の木目に映える重厚な打ち出し金具は、何十種類もの鏨(たがね)を用いて、全て手作業で彫進められる。それぞれの職人が磨いた技を注ぎ込み、約3ヵ月かけて仙台箪笥は出来上がります。宮城県芸術家協会で宮城県知事賞を受賞するなど、多くの賞を受賞している長谷部さん達の、世界に向けての挑戦に注目しましょう。

2010年3月 4日

またしてもハプニング

今日こそはと思い早起きをしました。するとどうでしょう。テレビではチリ地震による津波の虞があるので海岸には近づかないようにというメッセージ流れていました。朝のうちならまだ大丈夫とも思ったのですが、消防署のパトロールカーが引っ切り無しに通るので、断念せざるを得ない状態でした。ところがその時、玄関の扉をたたく音がしました。

開けてみると、何時もレオ君の面倒をいみいるお姉さんが立っていました。その時ピンときました。そうなのです。お姉さんはレオ君を避難させようとして、わが家に協力を求めに来たのでした。私のところは比較的安全なので、大津波警報が解除されるまで預かることにして、リードや食べ物を用意してレオ君を迎えました。

ところが、最初は物珍しそうにはしゃいでいたので、家に入りテレビの津波情報を見ている間に、リードをくいちぎり脱走してしまったのです。交通事故にでもあったら大変なので、慌てて探しに出ました。ちょうどその時家内も帰ってきたので、まず、レオ君の家をのぞいてみました。すると彼はそこに帰ってきていました。やっぱり自分の家が一番なのでしょうね。

2010年3月 3日

熟練の技「仙台箪笥」(その3)

仙台箪笥が、最も隆盛を極めたのは、明治末期から大正時代にかけてのことで、当時はヨーロッパにも輸出され、中でもドイツでの評価が高かったといわれています。第一次大戦後、仙台の連隊にドイツ人の捕虜収容所が置かれ、このドイツ兵が帰国する際のお土産として仙台箪笥を購入し本国に送ったのだとか。

この頃を頂点に、その後日本人の生活様式も少しずつ変わってきたため、大きな金具のついた民芸品的な仙台箪笥は敬遠されるようになり、全体の販売数は減少してきた。戦時中には、一切の生産が停止するに至ったという。しかし、戦後、この伝統的技術を復興させようと人々の熱意と努力によって生産が再開され、伝統工芸品として見直され始めました。

近年では、宮城県伝統工芸品に指定されるなど、漆を塗り替えれば100年も使える逸品という位置づけになってきている。長谷部さん達が組合を立ち上げた目的の一つには、次の世代への継承ということがある。「ジャパンブランド育成支援事業に応募して、今年3月に認定され4月から今後の展開についての検討を重ねています。

2010年3月 2日

熟練の技「仙台箪笥」(その2)

仙台箪笥は、木工、塗り、金具のそれぞれの職人の技が一つになって作りだされたものです。一つ物をひとつの場所で作るのではなく、それぞれ注文を受けた先が中心となって、一つの箪笥を作り上げてきました。つまり、それぞれの職人が、自分の作ったものを持ち寄って作業が行われるという工程で作業が進められるのだそうです。

「うちは塗り屋だから、木工が上がってきたものに漆を塗って、金具屋さんから金具をもらって箪笥に仕上げる。長年そういう仕事をしてきました」と話すのは、長谷部漆工の長谷部嘉勝さん。江戸時代から続く長い歴史と伝統を誇る漆職人で、長谷部さんが13代目で、現在は発足したばかりの仙台箪笥協同組合の専務理事を務めています。

2007年、長谷部さんをはじめ、仙台箪笥に携わる有志で念願だった仙台箪笥協同組合を設立しました。仙台箪笥やその技術を次の世代へ残し、繋げるためには、協同組合が是非必要だったという。「平成2年から動いていましたが、なかなかまとまらず、ようやく13社が加盟して動き始めました。次の世代に繋げていくためには、必要なことですから」と抱負を語っています。